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第29話 現代家電に敗北する最強の竜①

Author: 花柳響
last update publish date: 2026-03-30 18:00:05

 シフォンのドレス越しに肌を焦がすような熱い吐息を浴びてから、どれくらいの時間が経っただろうか。

 高く昇った太陽の光が、パノラマウィンドウを通してペントハウスのリビングを白く明るく照らし出していた。

 私は、部屋の端にある一人掛けのレザーソファにちんまりと身を沈め、自分の膝の上で組んだ両手をじっと見つめていた。淡いラベンダー色の生地は、座るたびに空気を孕んでふわりと広がり、胸元では重厚なサファイアのネックレスが鈍い光を反射している。

 やはり、どう考えても落ち着かない。

 こんな高価なものを身に纏って、ただ息をしているだけの時間がひどく居心地が悪かった。

 黎は少し前から、私をリビングに残したまま奥の部屋へと姿を消している。視界から外れることを許さないと言っていた彼が自ら離れていったのは、おそらく私がこの「鳥籠」から物理的に逃げ出す手段を持たないことを完全に理解しているからだろう。玄関のロックは複雑な暗証番号式で、内側から開ける方法すら私にはわからなかった。

 静寂の中、ふと、廊下の奥から異質な音が鼓膜を叩いた。
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    「消えろ、ブラン。今すぐその首を撥ねられたくなければ、俺の視界から失せろ」 黎の声は、完全に理性を失いかけた獣のそれだった。 しかし、白亜は黎の言葉を無視し、その淡い瞳を、腕の中でぐったりとしている顔へとまっすぐに向けた。 視線には、嫌悪も、敵意もない。ただ、冷徹な事実を冷酷に観察するような、圧倒的な「他者」の目。 白亜は小さな唇を開き、歌うようなトーンで、けれど残酷なまでの正論を地下牢に響かせた。「ねえ、お姉さん。お姉さんは、ノワールの肺を楽にできる唯一の存在だと思っていただろうけれど……、逆なんだよ」「ブラン……っ!」「ノワール、黙ってて。お姉さんは知るべきだから」 白亜は一歩、距離を詰めた。その瞳の奥に、竜種としての絶対的な一線が引かれる。「お姉さんのその魂の浄化能力はね、無限に湧き出る泉なんかじゃないの。触れるたびに、声を届けるたびに……お姉さんは、自分の生命力の芯を、少しずつ薪のように燃やして炭にしているんだよ。一人でその毒を背負うには、人間の器はあまりにも脆くて、小さすぎるの」 白亜の言葉が、高熱に浮かされる脳の奥底へと、冷たい楔のように打ち込まれていく。 自分の力を、薪のように、燃やしている。 さっき、桐箱を破壊した時に感じた、あの身体の芯が削ぎ落とされるような、圧倒的な枯渇感。あれは、気のせいではなかったのだ。「今回は、あの悪趣味な呪具を壊すために、ずいぶんと大きな薪をくべちゃったみたいだね。そんなことを続けていたら、お姉さん、ノワールの肺が完全に綺麗になる前に、自分の中身が空っぽになって死んじゃうよ?」 白亜の細い指先が、こちらをまっすぐに指差す。「その力は、命を削る力。人間が竜の傍にいるための代償としては、ちょっと高すぎると思わない?」 抱きしめる黎の腕が、痛いほどに強く、きしむ音を立てて締め上げられた。 黎の体温が、恐怖によって急激に冷えていくのが、密着した肌を通して伝わってくる。 白亜の淡い瞳が、暗闇の中で、憐れむように微かに揺れた。

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    「そんなガラクタはどうでもいい! お前、身体が……何だ、これは。冷たすぎる。おい、瀬理亜!」 黎の大きな掌が、おでこや頬を何度も触る。 熱が、心地よいというよりも、今の身体には強烈すぎて意識が飛びそうになる。肌の表面は氷のように冷え切っているのに、身体の内側からは、恐ろしいほどの高熱がじわじわと湧き上がってきているのがわかった。脳の奥がズキズキと痛み、呼吸をするたびに、喉が焼けるように熱い。「……お前、自分の命を、どれだけ削った……」 黎の声が、細かく震えていた。 あの最恐と恐れられる黒竜の手が、怯える子供みたいにガタガタと音を立てて震えている。「……すま、ない、俺が……俺がすぐにこいつらを叩き潰していれば、お前がこんな力を、使う必要は……」「ちが、います……。私が、やりた、かったから……」 掠れた声で、なんとかそれだけを伝える。 黎のせいではない。これは、自分が自分の人生を取り戻すために必要な代償だったのだから。 しかし、黎の瞳に宿った恐怖の色は消えなかった。黎は、胸元のブローチの跡――赤黒く腫れ上がり、微かに白い煙を上げている皮膚を凝視し、絶望的な表情で唇を噛み締めている。「俺の、せいだ。俺が傍にいるから、お前はいつも……」 黎の呟きが、奈落の冷気に溶けていく。 その時。 誰もいないはずの地下牢の階段から、コツン、コツンと、場違いなほど軽やかな靴音が響いてきた。 ◇ 湿った空気の中に、突如として、圧倒的なまでに清浄な、けれど刃物のように冷徹な気配が混ざり合う。 黎が即座に反応し、腕の中の身体を庇うようにして、階段の方へと鋭い視線を向けた。喉から、威嚇の低い唸りが漏れ出す。 階段の最下段。薄暗い光の中に姿を現したのは、人間社会のものとは思えない、澄み切った銀色の髪を持った少女だった。

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     手のひらから溢れ出た光が、胸元にまとわりついていた黒紫色の靄を内側から引き裂き、凄まじい勢いで浸食していく。 ジジ、ジジジジジッ、バチィィン! 屋敷の壁の裏側で、無数の細い管が千切れ飛ぶような、奇妙な破壊音が連続して響いた。有栖川邸の地下を巡っていた、寄生具の目に見えない根が、瀬理亜の放った光の圧力に耐えかねて次々と破裂していく。 部屋の中央に置かれていた小さな桐箱が、ガタガタと激しく痙攣を始めた。隙間から漏れ出ていた瘴気の供給が止まり、逆に、瀬理亜の放った白光が桐箱の木目を伝って内側へと逆流していく。「おお、おおお、あ、あああぁぁぁ!」 上の階から、宗隆の狂ったような悲鳴が微かに聞こえてきたような気がした。けれど、そんな声に耳を貸す余裕はない。 全身の血液が沸騰し、そのまま指先から外へと噴き出していくような、凄まじい枯渇感。生命力を直接削り落としながら、力を放出し続ける。 視界が真っ白に染まる。 ピキィィィィン! 最後に見えたのは、部屋の中央で、桐箱が縦に真っ二つへと裂ける光景だった。すずらんの刺繍が施された布が木端微塵に弾け飛び、中から、鈍い銀色の輝きを放つ小さな物体が床へと転がり落ちる。 同時に、地下牢を埋め尽くしていた黒紫色の靄が、夏の朝霧のように一瞬で霧散した。 静寂。 耳が痛くなるほどの静けさが、奈落の底に満ちる。 胸元の激痛は消えていた。有栖川の屋敷を覆っていた、あのねっとりとした不快な匂いも、跡形もなく消え去っている。「……できた……」 小さく呟いた瞬間、全身の骨がすべて消えてしまったかのように、身体の支えが完全に失われた。 視界が急速に暗転していく。床の大理石に向かって、頭から真っ逆さまに落ちていく感覚。 しかし、硬いコンクリートの痛みが襲ってくることはなかった。 ドサリ、という重い音と共に、焼けつくほど熱く、分厚い塊が身体を真横から受け止める。「瀬理亜! 瀬理亜、目を開けろ!」 鼓膜を震わせる、取り乱した黎の声。 視界はほとんど機能して

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     床についた黎の掌が、苦痛に小刻みに震えているのが見えた。長い爪がコンクリートを掻きむしり、ガリガリと鈍い音を立てて火花を散らしている。黎の呼吸は完全に乱れ、喘ぐような、痛々しい胸の上下が続いている。「瀬理、亜……、その、手を……、俺に……っ」 黎は血走った瞳で見上げ、必死に腕を伸ばしてくる。 その掌に触れれば、いつもなら自分の力が無自覚に発動し、黎の肺の痛みを吸い取ることができるはずだった。けれど、今の状態で黎に触れれば、有栖川家の寄生具が、黎の持つ強大な生命力まで一緒に吸い上げ、この屋敷のネットワークへと流し込んでしまう。それだけは、絶対にさせてはならない。「来ないで……ください……!」 伸ばされた黎の手を拒絶するように、一歩、後ろへと足を引いた。 黎の目が、絶望的な拒絶を突きつけられたかのように大きく見開かれる。「なぜ、逃げる……! 俺の、傍に……っ」「黎様を、巻き込みたく、ないから……っ」 床に膝をつきそうになる身体を、奥歯を噛み締めて踏みとどまらせる。 胸元のブローチの跡は、すでに火のついた炭を押し当てられているかのように熱い。ウールコートの胸元を掴むと、指先が黒紫色の靄に触れ、パチパチと皮膚を焼く小さな衝撃が走る。 このままでは、ただ吸い尽くされて終わる。かつての母のように、有栖川の家の床下に埋もれる、見えない部品の一つに逆戻りしてしまう。(そんなの、絶対に嫌だ……!) 六本木のペントハウスで過ごした、あの温かい日常が、脳裏を駆け抜ける。 不器用に家電に敗北していた黎の姿。深夜のコンビニで食べた、甘くて冷たいアイスクリームの味。祖母の記憶を大切に扱ってくれた、あの大きな掌の温もり。 私はもう、役に立つためだけに檻の中で息を潜める道具ではない。 黎の隣で、一人の人間として、自分の名前を呼ばれて生きたいのだ。

  • 追放された名家の令嬢ですが、最恐の黒竜様は私なしでは息もできません   第155話 暴走する寄生具と、削られる命①

     鼓膜の奥で、ガラスがひび割れるような鋭い高音が跳ねた。 胸元に衝突した黒紫色の靄は、空気のような軽さを持っていなかった。どろりと粘り気があり、氷点下の液体を直接肌に流し込まれたような、おぞましい冷気がウールコートの繊維を透過して肌へと染み込んでくる。 次の瞬間、冷気は爆発的な熱へと反転した。「あ、ぐ……っ」 短い悲鳴が喉元で潰れる。 かつて胸元に張り付いていた、あのすずらんのブローチ。黎によって破壊され、ただの錆びた金属片として処理されたはずの呪具の残滓が、皮膚の裏側で突然脈打ち始めたのだ。まるで、肉の中に埋め込まれた無数の針が一斉に逆立ち、内側から肉を抉るような激痛が走る。 視界がぐにゃりと歪み、周囲の大理石の壁や床の境界線が波打って混ざり合う。「瀬理亜!」 すぐ側から、引き裂くような叫び声が聞こえた。 大きな影が視界を遮り、熱い掌が肩を掴んで引き寄せようとする。黎だ。その黄金色の瞳には、見たこともないほどの激しい動揺が走っていた。長い指先が、胸元にまとわりつく黒紫色の靄を乱暴に毟り取ろうと空を切る。 しかし、黎の指先がその靄に触れた瞬間、バチィィンと激しい火花が散った。「――く、はっ……!」 黎の大きな身体が、目に見えて大きくよろめいた。 喉から、乾いた、苦しげな咳が漏れ出す。黎は胸元を片手で強く押さえ、コンクリートの床に片膝をついた。長い銀髪が乱れて顔に掛かり、その隙間から覗く肌が、一瞬にして浅黒い土気色へと変わっていく。 この地下牢の奥底に溜まりに溜まっていた、人間の濁った欲望と悪意の塊。現代の瘴気が、桐箱の開放によって濃縮され、黎の脆弱な肺を一撃で焼きにきたのだ。「黎、様……っ、ダメ、離れて……!」 声を絞り出そうとするが、肺の空気がすべて外へ吸い出されているかのように、まともな音にならない。 ジジジ、ジジジジジ……。 不快な電子ノイズのような音が、足元の床、そして洋館の壁全体から響いてくる。

  • 追放された名家の令嬢ですが、最恐の黒竜様は私なしでは息もできません   第154話 初めて父に背を向ける⑥

    「……三歩だぞ」「わかっています。離れませんから」 応接室の重苦しい空気を背に、二人は部屋を後にした。 ◇ 地下へと続く樫の木の扉は、以前よりも多くの南京錠で厳重にロックされていた。 けれど、黎が細い指先でその真鍮の錠前に軽く触れただけで、金属は熱したバターみたいにドロドロと溶け落ち、床へと滴り落ちた。 開け放たれた扉の向こうから、ヒヤリとした、湿った冷気が這い上がってくる。 埃と、カビと――そして、有栖川家が数世代にわたって蓄積してきた、呪いのような淀んだ空気。 一段ずつ、コンクリートの階段を下りていく。 一歩、下りるごとに、周囲の壁が湿気を帯びて黒ずんでいくのがわかる。かつて自分が閉じ込められていた地下牢を通り過ぎ、さらにその奥へ。 黎が長年縛り付けられていたという、本当の『奈落』。 最奥の部屋の前に辿り着くと、そこには焦げ茶色の重い鉄格子が嵌め込まれていた。「ここだな。お前の祖母が、俺に余計な呪言を残していった場所は」 黎が忌々しげに呟き、鉄格子を片手で掴む。 みちみちみちっ、と凄まじい金属疲労の音が響き、太い鉄格子が飴細工のように容易く曲げられていく。人が一人通れるほどの隙間が作られると、黎は顎で先へ進むよう促した。「待て。奥の空気が妙だ」 黎が突然、こちらの前に腕を出し、歩みを止めさせた。 黄金色の瞳が、暗がりの奥を鋭く睨みつけている。 部屋の中央。古い木箱や壺が無造作に積まれた空間の真ん中に、小さな桐箱が置かれていた。その表面には、有栖川家の家紋である『すずらん』の刺繍が施された布が掛けられている。 ドクン。 自分の胸の奥で、嫌な予感が跳ねた。 それと同時に、胸元に隠していた――かつて黎が壊してくれたはずの、すずらんのブローチの残滓、あるいは屋敷全体に巡らされた寄生具のネットワークが、不気味な共鳴音を立て始める。 ジジ、ジジジ……。 耳障りなノイズのような音が、桐箱の奥から漏れ聞こえてきた。 次の瞬間、

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